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日本における金融の歴史/ホームメイト
日本の金融の歴史(中世・近世)
中世の日本は、金融の先進国と言える程、金融の仕組みが発達していました。
中国の渡来銭

皇朝十二銭以降、約600年もの間、日本国内での統一貨幣の鋳造は行なわれていませんでした。
その代わりとして中国から輸入した「渡来銭(とらいせん)」と呼ばれる銅銭が、平安時代の末期から江戸時代前期まで、日本国内で広く使われていました。中でも明の永楽帝の時代に作られた「永楽通宝(永楽銭)」が室町時代の中期に大量に輸入されました。
この「渡来銭」を中国から買うために、日本で産出された大量の「金」が中国に向けて輸出されていました。
為替取引のはじまり

「為替取引」とは、遠隔地間の貸し借りを決済するのに、現金の輸送ではなく、手形や小切手によって決済する方法のことです。
日本で最初の為替取引は、「替米(かえまい)」であると言われています。「替米」とは、遠隔地に米を送るのに、現物の代わりに送る手形のことです。
中世に入ると、為替取引が発展し、鎌倉時代には将軍に仕えた御家人が鎌倉や京都で米や銭を受け取る仕組みとして為替取引が行なわれていました。
また、諸司・諸家が発行する切下文(きりくだしぶみ)や返捗(へんしょう)という支払方法がありましたが、これが現在の小切手や手形のもとになったとされています。
割符(さいふ)の登場

渡来銭が流通する13世紀後半になると、「割符(さいふ)」が登場します。「割符」とは、遠隔地に代金を送るのに、現金の代わりに送る手形のことです。
行商人の登場や市場の発達など商取引の発達によって、為替取引が活発化すると、次第に手形の発行と支払いを専門とする割符屋が現れ、現在の銀行取引のような役割を担っていきます。
借上・土倉の出現

渡来銭の普及によって貨幣経済が発達すると、富裕な僧侶などが、銭を貸して高利の利息を取る専門の金融業者となり「借上(かしあげ)」と呼ばれました。
また、鎌倉時代には、現在の質屋にあたる「土倉(どそう)」があらわれました。土倉は、物品を担保として預かり、それらの物品を保管するために土の蔵を建てたことから、こう呼ばれるようになりました。
室町時代になると土倉は、お金を元手に貸付を行なう「合銭(ごうせん)」にも従事するようになり、預金や融資、さらに為替業務といった銀行に近い業務を営むようになっていきます。
全国通用の鋳造貨幣の誕生

戦国時代になると、明の政策変更や銅不足から日本に銅銭が入ってこなくなります。
皇朝十二銭以降、長い期間日本では貨幣が鋳造されていませんでしたが、戦国大名の命令によって、武田信玄の甲州金や豊臣秀吉の金貨、銀貨などが次々と鋳造されるようになります。
そして、江戸時代になると、徳川家康によって全国統一の貨幣として、金貨、銀貨、銭貨(せんか)の三貨が鋳造されました。
日本における銀行の起源

徳川家康が鋳造した三貨のうち、江戸や上方を中心として東日本に流通していた金貨と銭貨は計数貨幣であったのに対し、大坂を中心として西日本に流通していた銀貨は秤量貨幣であったため、日常的に三貨の間で両替が必要となり、ここで交換する際の「相場」が生じました。
また、時期などによって相場が変化する変動相場となっていたことから、手数料を取って両替をするという両替商の仕事がこのときに生まれました。
両替商は、両替以外にも、商人や大名、そして幕府などを取引相手として、預金の受入れや、手形の発行や決済、貸付や為替取引など各種の金融業務を広く営むようになり、現在の銀行業務に近い役割を担っていきました。
紙幣の誕生

日本における紙幣の誕生は、戦国時代に伊勢国で発行された山田羽書(やまだはがき)です。
その後、江戸時代中期から、貨幣の不足などによって各藩が「藩札(はんさつ)」と呼ばれる紙幣を発行しました。藩札には、金札、銀札、銭札などがあり、特に銀札が多く発行され、明治時代になるまで様々な藩札が発行され続けました。
御用金の徴収

江戸幕府では、商人から御用金を徴収していました。御用金とは、幕府の財源が不足したときや臨時の支出を補填するために商人から徴収していたものです。
この御用金には利子がついており、現在の国債のもととなっています。
